周りの目が怖くて、本来の自分とは違った対応をしてしまう。
いわゆる「八方美人」である。
この生き方をし続けた先に、何が待っているのかを考えてほしい。一時の苦痛の回避の為に、人生そのものをムダにしている可能性がある。恐れているのは孤独。ただ孤独とは本当に苦しむべき程のものなのだろうか。そもそも自分らしく生きて孤独が起こるのか。
結論から言うと間違っている。実は自分のままで生き、自分の意思を明確に持つ事で「強く好かれる」様になるのだ。嫌われる場合も以前に比べて多くなる事はあるが、元より嫌う人間と関係を継続させる必要もない。
また孤独を恐れるが、人は皆孤独だ。だから群れて過ごし、何とか「孤独ではない雰囲気」を味わいたいと願っている。現実には誰も完全なる他人の理解なんてできない。どんな関係性でも相手の思っている事が完全に理解できる日はいつまでも訪れない。
それよりも「間違った人」との付き合いで命の時間を削られる方が大問題である。
孤独への恐怖心
誰しも「一人は嫌だ」という気持ちがある。一時一人になる事ではなく、生涯孤独であるのを恐れる人は多い。また友達という言葉が一人歩きをしていて、「友人がいる事=幸せ」の構図がどこかしら出来上がった。友達…本当に必要だろうか。
「友達100人できるかな」なんていうのは、恐怖心に拍車をかける歌だと私は思う。誰しもが大量の友達を目の前にハッピーになるのではない。数少なくとも深く関わる方が良い人間もいるのだ。誰からも好かれている状態を良しとする風潮は非常にナンセンス。大人が一番理解している。子供に歌として強要する時点で異常事態だと認識してもらいたい。
孤独は元来怖いものではない。一人で考えて一人で生きる。基本の姿勢なのだ。子孫繁栄や安全の確保で社会を構築したと言われる人間。よって欲求の中に「人と繋がりあいたい」と感じる部分が必ずある。言わば本能だ。
問題は「人に合わせて流されていないとそれが出来ないのか」という点であろう。はっきり言うが出来る。そんな必要はない。周りと合わせずに一人で生き抜いている様に思える態度の人にも仲間がいるのが分かるのではないか。少数ながらも極端な価値観にも仲間は発生する。もし自分が持っている自分らしさが極端でもないのなら、容易に自分の本質に合った人間関係を構築できる。
孤独は恐れる程でもない当たり前の事だが、そもそも自分を出しても孤独になるのは難しいレベルで多くの人がいるのだ。
かくいう僕も元は八方美人
高校入学まで僕は八方美人だった。だから怖がる気持ちも良く分かっている。嫌われたくないと感じるのも分かる。ただ高校から八方美人を脱却して強く思う事がある。
「間違った人」と関わる時間が如何にムダだったか。
実際問題、あれだけ気を使い精神を削り続けた中学校までの人間関係なんて、綺麗さっぱり消えている。今出会っても相手が僕を認識する事はまず無い。それほどにあの時の自分は自分ではなかったと言える。あの時期があったからこそ、高校からの変貌があったとも言えるがムダにする時間が少ないに越した事はない。読者の方が今何歳なのかは分からないが、今この瞬間から命の時間をムダにしない人生を進んで欲しい。
人生の最期で何を言うのか
もし人に嫌われない様に、自分を抑え込んで生きたとしよう。最期の時に自分を振り返って何を言うのか。
「今までずっと嫌われたくない一心で自分らしく行動してこなかったけど、これで良かった」って本当に言えるのか。僕はこんな人生絶対に嫌だと思ってしまう。楽しいはずがない。せっかくの人生を誰かに気を使い続けて生きたなんて、ダサすぎて口に出したくもない。
いつか突然「今日から自分らしく生きられる」って思っている人もいるのかもしれないが、それはない。勇気を持って一歩目を踏み出さなければ道はない。途中はおそらく孤独を経験するのだろう。だから何だというのだ。間違った人間が遠のいただけに過ぎない。何よりも自分の意思で動き出せた感動の方が大きい。意思のままに貫き続ければ、いつしか気を使わずに接する事が出来る仲間に恵まれていく。
「ああ、あの時の人間関係が如何に似非だったかに気付いた」と言える日が来るのだ。
孤独は怖くない。間違った人間関係に時間をムダに浪費しないでほしい。
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