嫌われる勇気って?
嫌われたくないって気持ちがどんな人の中にも少なからずあるもの。
それは人間が社会生活を送る動物で、
その中しか子孫繁栄が不可能だからやむを得ない事と言える。
嫌われてしまったら郡からはみ出て生きていける可能性も繁殖の可能性も低くしてしまうのだ。
どこまでいっても、
中々世捨て人のように自分の本能のままに生きるのは困難となる。
それ故に、
「嫌われる勇気」という著書が流行するまでに至ったのだろう。
俊逸なタイトルの付け方だった。
アドラー心理学をベースとした考え方で分かりやすさにも定評があるものとなっている。
英語が読める人は原書を読んでみるのも一つではないかと思う。
そんなアドラー心理学を分かりやすく描いた嫌われる勇気は大ベストセラーなだけに多くの人が読んでいる。
内容を知っている人も知らない人もタイトルを見るだけで何となく理解する事が出来るだろう。
要するに、
「嫌われない事に固執しすぎて生き方を見失うなよ」っていうような話だ。
(簡単にしすぎで誤解を招くかもしれないのでぜひとも一度読んでみて欲しい)
嫌われたくないと好かれたいは違う
誰でも好かれたいという気持ちは当然ながら持っている。
私もこの点は同意する。
嫌われるよりは好かれる方がいいのは当然であろう。
但し、
「嫌われたくない」という気持ちが強いかと言われれば私はそうではない。
好かれたい事実はあっても、
自分を捻じ曲げてまで「嫌われないでおこう」とする行動はしない。
私は中学校時代までずっと八方美人で嫌われない事に注力してきた人間だった。
だからこそ、
この違いについてよく理解しているし多くの人に「嫌われない」事よりも自分の意志のままで行動して「嫌われてしまったら仕方ない」というスタンスを身につけて欲しいと願っている。
この辺りの話は以前サンクチュアリ出版でのトークイベントにて話をしているので、
興味がある方は読んでみて欲しい。
「好かれたい」というのと「嫌われたくない」というのは実は全く違う。
これを間違ってしまうと人生は闇に包まれる。
実は我儘なだけって事もある
人から好かれる為に何をすればいいのか。
単純な話。
「相手が喜ぶことをする」
これが一番だろう。
世の中はギブアンドテイクで成り立っている。
(これについては【GIVE&TAKE】で詳しく語られている)
自分を喜ばせてくれる人に好意を抱くのは至極当然の話。
それは恋愛でも普通の人間関係でも同じではないか。
好かれたいという気持ちが強ければ、
相手が喜ぶことは何かというベクトルで思考を動かすことになる。
これはビジネスにも繋がるところで特に悪いこともない。
但しテイクを求める形でのギブは現実にギブとは呼ばない。
自分の出来る範囲の事で誰かが喜ぶ事を実践していく。
見返りを求める形で与えようとする行為はギブに至らずに時に人を困惑させたりする事を忘れてはならない。
自分に出来る余裕の元で誰かに与えていくのは「好かれる行動」として有効に働く。
問題は「嫌われたくない」という気持ち。
この心の動きは、
嫌われる事で自分に降りかかるマイナス面をイメージしてしまっている。
簡単に言えば、
自分本位のものなのだ。
ベクトルは相手のプラスに向いてはいない。
自分がマイナスを受けたくないというものになってしまっているのだ。
相手の反応が自分にとってマイナスにならない様にしたいと願っている状態。
厳しい言い方をしてしまえば、
自分勝手と言い換えてもいいだろう。
基本的に他人の反応や行動を操作する事は出来ない。
コントロール不可能な事に思い悩んで、
しかも「自分の期待通りになって欲しい」と考えて沈み込んでいるのだ。
自分がした行為に大して相手が何を思うのかは分からないものである。
よって自分のあるがままで生きたとしても、
気遣いで疲れ果てたとしても他人の反応は操作出来ない。
どちらが自分にとってストレスのかからない生き方なのかは明確であろう。
私は以前心理学スクールの先生にこんな事を言われた。
「万人を好きになれないくせに自分は他人からは嫌われたくない」なんて思うな。
確かにそうだと思う。
万人を好きになるなんて私には出来ない。
それはアナタもそうではないか。
できる訳がないのだ。
それなのに自分は万人から嫌われずにいるなんて我儘ではないか。
嫌われる事を恐る必要は無い。
⇒【八方美人を辞めた高校の話】
相手が自分を嫌うかは勝手
私達のどんな行動で相手が嫌いになってしまうのか。
はっきり言って分からない。
真面目に礼儀正しくしていたら、
嫌われないのか。
そんな事はない。
そういうのが嫌いという人もいる。
その逆もいるだろう。
どんな行動においても正解はないのだ。
そんな魑魅魍魎の住む社会の中で「嫌われないように」過ごすというのは不可能と言える。
何度も言うが、
私達だって好き嫌いがある。
それは相手も同じ事。
自分を嫌いな人もいれば、
好きな人だっている。
それは、
気を遣い続けて高いストレスの中で当たり障りのない生活を過ごしていても、
自分の思うままに楽しく生きていても全く同じことになる。
嫌われることも好かれることもある。
どんな生き方でもそれは同じ。
勿論社会性の中で好かれやすい行動は存在する。
これは先も伝えた相手が喜ぶであろう行動の積み重ねである。
それも「嫌われたくない」なんて自分向けのベクトルから来る行動ではなく、
純粋に相手を慮っての行動である。
重そうな荷物を前が見にくい中で運んでいるのを見て、
「(危なそうだ!)手伝いますいよ!」と差し伸べられる手はこれに相応する。
相手を見ていて自分がそれによって何かお返しを貰おうなんて思っていない。
自分の思いのままに生きるのも、
相手の反応に一喜一憂しながら高いストレスで生きるのも結局は相手次第でどちらも同じ。
コントロールが出来ない事。
だったら自分が楽しい方を選んだらいい。
職場や学校にある人間関係は、
たとえそれが友達ってことになっているようなものでも関係ない。
自分のそのままを見せていくのだ。
「何だコイツ」と言って嫌っていくような輩ならどの道どこかで別れが来る。
早めに知れてラッキーと思えばいい。
嫌いになるのも、
好きになるのも、
私達の自由だし相手の自由でもある。
難しく考えてはいけない。
必死で無理をしてでも留めなければいけないような人間関係はこの世界にただの一つもない。
特に、
不要だったものは捨ててしまって初めて清々しい気持ちを得るのだ。
柵は倒してしまえば、
眼前に広がる世界の美しさに気付く。
そんなもの。
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